三分文庫

盆栽師の狂騒

蒸し暑い。夏の熱気が、盆栽園の空気を重く、粘つくようにした。佐伯樹は、亡き父、宗一郎が遺した「長寿梅」の幹に、神経を研ぎ澄ませていた。父の遺した、あの厳格で、一切の妥協を許さなかった眼差しが、今もこの庭を支配しているかのような錯覚に陥る。その姿を、楓は、入口の古びた縁側から、じっと見つめていた。

二人の間には、幼い頃から積み重ねてきた、何よりも濃密な時間が流れていた。だが、この蒸し暑さと同じように、その時間には、決して晴れることのない、澱んだ距離感が漂っていた。

「盆栽ばっかり見ないでよ、樹」

楓の声は、夏の喧騒に掻き消されそうになりながらも、樹の耳に届いた。だが、樹の意識は、すでに「長寿梅」の微細な枝葉に絡め取られていた。

「…ああ」

上の空の返事。楓の胸に、熱いものがこみ上げた。それは、樹への愛情と、彼が自分ではなく、あの「盆栽」にばかり心を奪われていることへの、激しい嫉妬だった。

「私を見てよ!ねぇ!」

楓は、縁側から駆け寄り、樹の肩に手を置いた。樹は、まるで邪魔をするな、とでも言うように、その手を振り払った。

「父さんの盆栽だ。触るな」

その声は、冷たく、硬かった。楓の心に、激しい怒りが燃え上がった。父への複雑な思いと、自分への抑えきれない愛情。その両方を、樹は「盆栽」という名の、冷たい鉄の壁の向こうに閉じ込めているのだ。

「父さんの遺品、整理してたんだけど…これ、見つけたの」

楓は、古びた木箱から、父、宗一郎が使っていた包丁を取り出した。鈍く光る刃が、夏の光を反射する。樹は、その包丁を見て、顔色を変えた。

「…それを、どこに」

「この箱の中に、あったのよ。父さんの、日記も」

樹は、父の日記を手に取った。そこには、盆栽に注がれた、狂気とも言えるほどの愛情と、楓への複雑な感情が、歪な文字で綴られていた。「盆栽は、愛情を注ぎすぎると、歪む」

その言葉が、樹の心をざわつかせた。父の言葉と、手にした包丁の刃が、楓の心の中で重なる。楓は、無造作に、近くにあった盆栽の枝を切り落とした。

「っ!何を…!」

樹の叫びが、園に響き渡った。その声には、父への複雑な思いと、楓への抑えきれない愛情が、激しい奔流となって噴き出していた。

「父さんの盆栽に、触るなと言っただろう!」

樹は、楓を睨みつけた。その瞳は、父の厳格な眼差しを宿していた。楓は、樹のその眼差しに、父と同じような、底知れない狂気を見た。そして、恐ろしくなった。

「樹…」

「お前には、分からないんだ!」

樹は、父の日記を強く握りしめた。「盆栽に魂を捧げる」父の言葉の真意を探ろうと、彼は異常なまでの執着を見せた。食事も、睡眠も削り、ただひたすらに、盆栽と向き合った。その没頭は、父を超えたいという渇望と、楓への愛情との、激しい葛藤から生まれていた。

作業中、ふと、楓の顔が浮かんだ。手が止まる。だが、父の遺した「長寿梅」に、父を超えたいという、燃え盛るような渇望が、彼を再び盆栽へと駆り立てた。

「もう、限界よ!」

楓の声が、樹の耳を劈いた。彼女は、樹の肩を掴み、必死に訴える。

「私と、盆栽…どっちが大事なのよ!」

樹は、楓の言葉を、まるで遠い世界の出来事のように聞き流した。

「お前には、分からない。これは、父さんとの、約束なんだ」

その言葉は、樹が父から受けた、愛情表現の欠如に対する、ある種の反抗だった。父が、決して自分に愛情を言葉にしてくれなかったことへの、静かな、しかし激しい怒り。そして、楓への、歪んだ愛情の叫び。

樹は、父が最も大切にしていた「長寿梅」に、ある「シフト」を施そうと決意した。それは、父が「禁断」としていた、木に負荷をかけることで、より一層の風格を引き出す、危険な技法だった。楓は、その技法が「長寿梅」を枯らしてしまう可能性を危惧し、必死に樹を止めようとした。

「やめて!このままじゃ、お父さんの盆栽が死んでしまうわ!」

「黙れ!俺は、父さんを超えたいんだ!この盆栽に、俺の全てを叩き込む!」

この「禁断の技法」は、樹が父から受けた愛情表現の欠如に対する、ある種の「反抗」であり、「愛情の証明」でもあったのだ。父の遺した盆栽に、自身の魂を刻みつけることで、彼は父に認められたかった。そして、楓に、自分だけを見てほしかった。

「長寿梅」の「シフト」作業中、楓は、もう、耐えきれなかった。彼女は、園の片隅に置かれていた、父、宗一郎の遺した包丁を掴み取った。その鈍く光る刃を、樹の背中に突きつけようとした。

「もうやめて!お願いだから!」

樹は、作業の手を止めず、楓の声を聞こうともしなかった。

「邪魔をするな!」

樹は、楓の言葉を、まるで虫の羽音のように退けた。楓は、樹の背中に、包丁を振り下ろそうとした。その瞬間、樹は、作業の手を止め、ゆっくりと振り返った。

二人の視線が、激しくぶつかり合った。楓の瞳には、樹への愛情、嫉妬、そして、どうしようもない絶望が、渦巻いていた。樹の瞳には、父への、どうしようもない渇望と、楓への、複雑で、激しい感情が、燃え盛っていた。

「愛してる…だから、憎い!」

楓は、叫んだ。その声は、悲鳴だった。彼女は、包丁を樹に向かって、振り下ろした。

樹もまた、楓を抱きしめようと、手を伸ばした。二人の感情が、臨界点を超え、激しくぶつかり合う、その刹那——

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