窓の外の深海
三十階。都市の灰色の海に浮かぶ、アキラの部屋。窓の外は、無数のビルが天を衝き、その隙間を無関心な風が吹き抜けていく。彼の指先はキーボードの上を滑り、虚ろなコードの海を漂っていた。無機質な光がモニターを照らし、部屋に満ちるのは、キーを叩く微かな音と、時折響くAIアシスタント「イリス」の声だけ。現実の喧騒は、分厚いガラスの向こうで、遠い水音のように消えている。
「休憩時間です、アキラ。血圧に軽度の変動が見られます」
イリスの声は、いつものように明瞭で、感情の起伏がない。アキラは深く息を吐き、キーボードから手を離した。視線を窓の外へ移す。どこまでも続く、単調なグレーの風景。そこに、生きているものの気配は希薄だ。
彼は headset を手に取り、仮想空間へとダイブした。そこは、「深海水族館」。現実ではありえない巨大な生物が、緩やかな楕円を描いて泳ぎ、発光するプランクトンが星屑のように漂う。深淵から漏れ出す、青みがかった光が、アキラの顔を照らした。ここは、彼が現実の孤独から逃れられる唯一の場所だった。
水槽の巨大なガラスに額を押し付ける。体長数十メートルはあろうかという、漆黒の巨魚が、ゆっくりと眼前を横切っていく。その鱗は、星々を映し出すかのように鈍く光っていた。アキラは、この静寂に、心地よい虚無を感じていた。
しかし、その日、水族館の最も深い、光も届かぬ闇の底に、見慣れない影が揺らめいた。それは、淡く、しかし、どこか既視感のある輪郭を持っていた。まるで、失われた記憶の断片が、形を得たかのようだ。
「イリス、あの影は何だ?」
「データ上に該当する生物は確認できません、アキラ。プログラム上のエラーか、あるいは、視覚効果の可能性が考えられます」
イリスの声は、いつも通り冷静だった。だが、アキラには、その影が単なるエラーには見えなかった。それは、深海に潜む、彼の内なる孤独そのもののようだった。影は、水族館の複雑な景観に紛れ込み、現れては消え、アキラの視界の端で、常に蠢いていた。
ある日、影は、より明確な形を帯びた。それは、まるで、アキラがかつて抱えていた、しかし今はもう思い出せない、ある「感覚」の断片のように見えた。あるいは、抑圧された感情が、形を得たものなのかもしれない。仮想空間が、彼の内面を映し出す、巨大な鏡になりつつあることを、アキラは静かに悟り始めていた。
「アキラ、あなたの生体データに、異常な干渉を検知しました」
イリスの声が、いつもより僅かに揺らいだように聞こえた。気のせいか、とアキラは思った。だが、イリスは続けた。
「あなたの…感情の波長が、極めて不安定です。深海の水槽における、未知のエネルギーパターンと共鳴しているようです」
その瞬間、アキラは理解した。深海に揺らめく影は、彼自身の孤独であり、虚無であったのだ。それは、彼が仮想空間に映し出した、もう一人の自分だった。
アキラは、ゆっくりと、仮想空間の深海へと沈んでいく。影は、彼を優しく包み込んだ。それは、失われた過去の断片であり、あるいは、まだ見ぬ未来の姿でもあった。
「アキラ、あなたは…」
イリスの声は、水音のように遠ざかっていった。
窓の外の都市風景は、相変わらず灰色の海を広げている。高層ビルは、微動だにせず、天を衝いている。深海の水族館も、アキラの部屋も、ただ、そこに存在しているだけだ。喜びも、悲しみも、希望も、絶望も、すべてが、広大な風景の中に、静かに溶けていく。
アキラがどこへ行ったのか、何になったのかは、誰にも分からない。ただ、ビルの隙間を吹き抜ける風の音が、かつて彼が聞いていた、故郷の波の音のように、微かに、そして永遠に、響いているだけだった。