ローラースケートと、あの夜の約束
「……見ないで」
雨上がりの、硝子玉みたいな夕暮れ。錆びた鉄骨が空を突く、寂れたローラースケート場。場内アナウンスの代わりに、遠くで犬が吠える声が響いていた。雫は、貸し出し用の古びたローラースケートに足を通し、震える手で靴紐を結んだ。リンクに立つ。冷たい風が、濡れた髪を肌に貼り付けた。
滑り出す。最初はぎこちなく、やがて慣れてくると、まるで水面を滑るように、軽やかに。この瞬間だけは、内気な雫は消え去る。ただ、風を切り、月へと続くような、一本の線を描くものになる。
ふと、視線を感じた。
リンクの入り口に立つ、見慣れた影。相葉蓮。
心臓が、跳ね上がった。慌ててスピードを落とし、危うく転びそうになる。リンクの端に駆け寄り、早足で降りた。
「……!」
「雫ちゃん?」
声が、すぐ後ろからした。振り返ろうとして、やめた。
「……来ないで」
「え? どうしたの、急に。練習?」
「……違う」
「……見ないでって、言っただろ」
息が、詰まる。
翌日。古びた居酒屋、『月光』。カラン、とドアベルが鳴る。カウンターの隅に座り、熱燗をちびり、雫は窓の外を見ていた。雨は、もう降っていない。
「あれ、雫ちゃん?」
気怠げな声に、肩が跳ねた。振り返ると、相葉蓮が、店のおかかえみたいに、カウンターの真ん中に座っていた。
「……別に」
「別にって、何が? 昨日のこと、怒ってる?」
「……怒ってない」
「ふーん。なんか、隠してる?」
蓮が、ニヤリと笑う。その眼差しに、昨夜の光景が蘇った。リンクに立つ、彼の姿。慌てて逃げ出した、自分。
「……あの、約束、まだ続いてるの?」
蓮の言葉に、雫の顔から血の気が引いた。約束。誰にも言えない、秘密の、契約。
「……何のこと?」
「とぼけるなよ。満月の夜に、一人でリンク一周するんだろ?」
「……!」
「願いが、叶う、とか」
「……」
「そんな、馬鹿な話、まだ信じてるのか?」
雫は、俯いた。湯気の立つ徳利を、ぎゅっと握りしめる。
「……もう、無理なのに」
「何が?」
「……何でも」
「……君の契約、僕が叶えてあげるよ」
蓮の、突然の声。顔を上げる。
「え……?」
「『一人』で、じゃなきゃダメなんだろ?」
「……」
「じゃあ、僕と、二人で」
蓮は、おもむろに立ち上がり、雫の隣に座った。そして、空いた手で、雫の震える手を、そっと包み込んだ。
「……でも、私……」
「大丈夫だって。俺に、できることなら、何でも」
蓮の、温かい手のひら。その優しさに、涙が滲みそうになる。
満月の夜。
静かな月明かりが、ローラースケート場のリンクを、銀色に照らし出していた。昨夜の雨は嘘のように、空には星が瞬いている。
雫と蓮。二人は、手を取り、リンクに立っていた。
「……準備、いい?」
蓮の声は、落ち着いている。雫は、ただ、頷いた。
滑り出す。ゆっくりと。一歩、また一歩。呼吸が、ぴったりと合う。
視線が、絡む。月光を浴びて、蓮の瞳が、キラキラと輝いた。
一周。二周。静かに、時だけが流れていく。
そして、一周し終えた、その瞬間。
雫は、蓮に向き直った。月光を背に、まるで舞台の幕が上がるように。
「私、本当は、ずっと……」