影法師の休暇
部署の異動を命じられた佐伯浩一は、特に感情の起伏もなく、ただ静かに頷いた。日々の業務を淡々とこなすだけの、影のような人生。新しい部署もまた、淀んだ空気と、どこか重苦しい気配を纏っていた。佐伯は、ここでも変わらず、誰の目にも留まらぬ「影」として存在し続けようと心に決めた。
だが、奇妙な現象が佐伯の視界に割り込み始めたのは、異動して間もなくのことだった。自分の影が、時折、佐伯自身の意図とは異なる動きを見せるのだ。最初は疲労のせいか、気の迷いか、と一蹴しようとした。しかし、その頻度は徐々に増していった。影は、まるで意思を持ったかのように、佐伯の些細な行動を誘う。例えば、佐伯が内心で無視したいと願う同僚、田中淳からの軽薄な話しかけ。佐伯が顔を伏せようとすると、影は佐伯の首を、田中に向けるように、かすかに傾けさせた。
佐伯は、己の影の異常な動きに、じわりと恐怖を覚えた。だが、誰かにこの異常を訴えることなど、到底できなかった。精神病棟の寝台で、虚ろな目で天井を見つめる自分の姿が目に浮かんだ。相談すれば、自分が狂人だと断定されるだけだ。佐伯は影の動きに抵抗しようと、努めて平常心を保とうとした。しかし、次第に影の意思に逆らうことが難しくなっていく。影は佐伯の代わりに、田中に取るに足らない些細な嫌がらせを仕掛けたり、部長への悪意に満ちた言葉を囁くよう佐伯を促した。佐伯は内心で罪悪感に苛まれながらも、影が自分を解放してくれるかのような、奇妙な高揚感すら覚え始めていた。ある時、影は佐伯の口を無理やりこじ開け、田中に向けた、隠されていた悪意の言葉を吐き出させた。それは、佐伯自身の心の奥底に沈んでいた、言葉にできなかった醜悪な感情そのものであった。
影の行動は、さらにエスカレートしていった。それは、もはや陰湿な、執拗ないじめへと変貌していた。佐伯は影に操られるまま、田中を精神的に追い詰めていった。田中もまた、佐伯の突然の変化に戸惑いを隠せずにいたが、佐伯には影に操られていると訴える余地などなかった。ただひたすらに、影の命令に従うしかなかった。部長は、佐伯の陰湿な行動を黙認するどころか、むしろ田中の排除を企む佐伯の行動を、巧みな手腕だと賞賛する始末だった。佐伯は、影の存在に依存し、自らの意思を失っていく。影が佐伯の体を内側から侵食していくような、皮膚の下で何かが蠢くような、生理的な嫌悪感に佐伯は苛まれた。それは、影が佐伯の肉体すら、完全に掌握しようとしている兆候であった。
影の指示通り、佐伯は田中のミスを巧妙に隠蔽し、田中を会社都合での退職へと追い込んだ。田中が去った後、佐伯は虚ろな目で、背後で揺らめく影に語りかけた。「これで、君は自由だ」。しかし、影は佐伯の言葉に何の反応も示さず、ただ静かに佐伯の背後で揺らめいているだけだった。佐伯は意を決し、影から解放されるべく、影に触れようと手を伸ばした。その瞬間、影は佐伯の手を掴み、まるで粘性の高い黒い液体のように、佐伯の体へと溶け込んでいった。佐伯の絶叫は、内側から歪み、嘲笑のような、奇妙な音へと変わっていく。彼の体は、内側から崩壊し、黒い染みとなって床に広がっていった。
後日、佐伯の席には、以前よりもさらに濃く、暗い「影」だけが、静かに佇んでいた。その影は、まるで新たな人間を求めているかのように、蠢いていた。佐伯は、影そのものになってしまったのだ。そして、彼の影であったものは、今や、希望に満ちた笑顔で挨拶をする、新入社員の足元に静かに伸びていた。その新しい影は、新たな宿主を見つけ、蠢いていた。