三分文庫

隣人の庭

俺の視線は、いつも隣の庭に吸い寄せられる。佐藤花子という女が住む、あの古びた団地の一室。彼女は滅多に姿を見せず、庭の手入れも夜間に行われるらしい。だが、その庭に生える植物ときたら、尋常じゃない。俺、田中一郎だけが、その真の価値を理解している。選ばれた人間だからな。

昼間、俺は窓からそれを眺める。陽光を浴びて輝く葉。夜には、微かな脈動を帯びた光沢を放つ。時折、形を僅かに変える。まるで、生きて、呼吸しているかのようだ。世界中のどんな植物図鑑にも載っていない、未知の生命体。地球外から飛来した、あるいは、極秘裏に開発された、最先端のバイオテクノロジーの産物。そんな想像が、俺の胸を熱くさせた。

花子は、一体何者なんだ? 世界的な植物学の権威か? それとも、秘密結社の一員か? 俺は、この平凡な団地で、とんでもない秘密の隣に住んでいる。この事実に、俺は密かな優越感を覚えていた。俺だけが、この世界の深淵を覗き見ている。凡人どもには、決して理解できない真実を。

ある日、庭の植物は、さらに異様な成長を遂げた。深海の生物のような、脈打つ光沢。見る角度によって、幾何学的な模様が変化する。それは、もはや「植物」と呼ぶには程遠い、異形の存在だった。俺は確信した。花子は、地球外生命体由来の植物を研究しているのだ。そして、俺はその秘密の傍にいる。この孤独で、しかし崇高な秘密を共有できる存在。俺は、ますます花子に、そして自分自身に、畏敬の念を抱いた。

情報を集めようとした。インターネットで、専門書で、あらゆる手段を講じた。だが、何も見つからない。当然だ。そんなものは、公には存在しないのだから。俺の知識は、この世界の表層しか捉えられていない。花子の研究は、俺の想像を遥かに超えている。俺の知る「真実」など、取るに足らないものだ。いや、待て。これは、俺が「選ばれた人間」である証拠だ。一般人にはアクセスできない領域に、俺は触れている。俺の優越感は、さらに強固なものとなった。

夜な夜な、俺は庭を観察し続けた。植物は、庭全体を覆い尽くさんばかりに成長していた。その異様な光は、夜の闇を不気味に照らし出した。それは、まるで、新たな生命の誕生の光景のようでもあり、あるいは、終焉の予兆のようでもあった。俺の胸は高鳴る。この未知なる現象の目撃者として、俺は歴史に名を刻むことになるのかもしれない。

ついに、植物は庭全体を覆った。不快な匂いが漂い始める。これは、もはや看過できない。俺は、花子に直接話しかけようと決意した。この、驚異的な植物の正体と、その背後にある真実を、この目で確かめるために。

意を決して、隣の部屋のドアをノックする。しばらくして、ドアが開いた。そこにいたのは、物静かな、しかし、白髪の老人だった。花子さん、ですよね?

「あら、あなた。どうかなさいました?」

俺は、庭の植物について尋ねた。あの、信じられないほど成長した、異様な植物について。

「ああ、あの草ね。また、こんなに大きくなったわ。子供の頃から、毎年こうなのよ。昔、団地の景観を良くするために植えられたんだけど、生命力が強くて困ってるのよ。」

花子さんは、こともなげにそう言った。そして、俺が愕然としていると、植物の根元を指差した。

そこには、古びたラベルがあった。何十年も前のものだろう。団地建設時の、「仮設植栽」と書かれた、ただの記念碑だった。素材は特殊なプラスチックで、文字は異様に古風なフォントで刻まれている。俺が「地球外生命体由来の植物」と信じて疑わなかったものは、ただの生命力の強い雑草だったのだ。

「あなた、そんなに珍しいと思ったの? ふふ。」

花子さんは、老いた顔に皺を寄せ、静かに笑った。俺が優越感に浸っていた「秘密」は、ただの勘違い。俺が「選ばれた人間」だと思い込んでいた傲慢さは、跡形もなく崩れ去った。俺は、ただの、庭の雑草に一喜一憂していた、愚かで哀れな男だった。窓の外では、相変わらず、隣の庭の「草」が、太陽の光を浴びて、静かに葉を揺らしていた。

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