銀嶺のレール、溶けたカレー
夫、健一が遺してくれた会員権のスキーリゾートに、私は一人でやって来た。雪はまだ深く、銀嶺を抱く山々は、まるで静謐な眠りについているかのようだった。健一は、私が一人でいることを極度に心配していた。彼の温かい眼差しが、今も瞼の裏に焼き付いている。この、彼が愛した場所で、彼の面影を辿りながら、静かに時を過ごそうと決めたのだ。私の唯一の慰めは、健一との思い出が詰まった鉄道模型のジオラマ製作。あの精巧なミニチュアの世界に、私はいくばくかの安らぎを見出していた。
リゾートでの日々は、穏やかに、そして丁寧に進んでいった。ホテルの従業員である佐藤さんは、いつも明るく、私の些細な要望にも快く応えてくれた。「佐倉様、お食事は温かいものがお好きかと存じまして、本日は特別に地元産のきのこのポタージュをご用意いたしました」彼女の親切は、まるで温かい毛布のように私を包み込んだ。大学時代の後輩である小林さんも、私のジオラマ製作に興味を持ってくれ、頻繁に訪ねてきては、細やかな手伝いを申し出てくれた。「佐倉さん、この橋の架け方は、健一さんがお好きだったあの路線に似ていますね。模型でも、あの頃の雰囲気を再現したいんですか?」小林さんの言葉は、私の心の奥底に触れるようだった。彼らの親切は、何一つ不自由のない、快適な滞在を約束してくれるように思えた。
しかし、日を追うごとに、その丁寧すぎる親切の奥に、何かが潜んでいるような、奇妙な息苦しさを感じ始めていた。特に小林さんの気遣いは、時として過剰に感じられた。私が一人でいること、夫を亡くした寂しさを、彼はまるで自分の使命であるかのように埋めようとしてくる。その熱意が、私には少々重く感じられたのだ。
ある夜、私は健一がスキーで事故に遭い、そのまま帰らぬ人となった日のことを思い出していた。彼は、私が一人でいることを、どれほど案じていたことだろう。遺された日記には、私の寂しさを紛らわせようと、健一がどれほど多くの計画を練っていたかが記されていた。彼の愛情は、あまりにも深く、そして私を包み込むためには、時に私を縛り付ける鎖ともなり得るのだと、私は漠然と感じていた。小林さんが、私のジオラマ製作を手伝いながら、ぽつりと呟いた。「佐倉さん、健一さんのことを、まだそんなに想っていらっしゃるんですね。でも、過去の人は、もう慰めにはなってくれないですよ。これからは、僕が、佐倉さんのことを、もっともっと幸せにできます」その言葉は、彼の好意の裏に、私を支配しようとする影がちらついていることを示唆していた。
その夜、レストランで耳にした佐藤さんの言葉は、私の胸に冷たい衝撃を与えた。「佐倉様は本当に奥ゆかしい方で、亡き旦那様もさぞかし心配なさっていたでしょうね。でも、もう大丈夫、私がしっかりサポートさせていただきますから」彼女の明るい声の裏に、私の弱さを覗き見、それを「サポート」という名の支配へと繋げようとする意図を感じた。さらに、部屋に戻ると、小林さんが私の許可なく部屋に入り込んできていた。私が健一の遺品であるスキー板を手に取ると、彼は私の手を掴み、「もう過去のことはいいんですよ、佐倉さん。これからは僕が、陽菜さんを暖かく包んであげますから」と、熱っぽく迫ってきた。その時、私は確信した。彼らの親切は、私を自由にするためのものではなく、私を自分たちの都合の良いように、閉じ込めるための檻なのだと。
私は、そのリゾートを後にすることにした。雪化粧した山々が、車窓の外を流れていく。車内には、健一が遺した、完成間近の鉄道模型のジオラマが置かれていた。彼の「陽菜への愛情」と、「彼女を一人にしたくない」という強い執着が、この精巧な世界に込められている。健一が遺した日記の断片が、私の脳裏をよぎった。彼は、私への愛情を深めるあまり、私の知らないところで、私の趣味である鉄道模型の部品を密かに集め、それを隠すために無理な行動をとった結果、事故に遭ったのだ。彼の「愛情」という名の支配欲と、それが招いた悲劇。私は、その歪んだ真実を、静かに受け止めるしかなかった。佐藤さんのような、善意を装って他者を支配しようとする人々への、冷たい嫌悪感が胸に広がった。私は、自宅のジオラマに目を落とした。そこには、永遠に完成しない、健一の「愛情」が、冷たい銀色のレールのように敷き詰められている。それは、彼が私を縛り付けるための、決して解けることのない鎖なのだと、私は悟ったのだ。