三分文庫

石畳の黒猫と、冷たい指先

石畳が濡れて光る、古風な城下町の商店街。イヤホンから漏れる、かすかなギターの旋律をBGMに、橘蓮は無機質に歩いていた。中学時代、些細なことから桜井陽菜とは口もきかない関係になった。もう随分前のことなのに、すれ違うたびに、蓮は陽菜の纏う空気の微かな変化に気づいてしまう。彼女からの視線を感じるたびに、中学時代の気まずさが、冷たい雨のように心を撫でていく。

雨上がりの午後。いつもと違う、生活感の滲む路地裏の匂いが鼻をくすぐった。そこに、一匹の黒猫がいた。片方の耳が欠けている。雨に打たれ、小さく丸まって、震えていた。蓮は、思わず足を止めた。イヤホンを外し、猫にそっと手を伸ばそうとした、その時だった。

「あの子、大丈夫かな?」

背後から聞こえた、聞き慣れた、けれど今は遠く感じる声。桜井陽菜の声だった。蓮は、驚いて振り返った。陽菜もまた、濡れた猫を心配そうに見ていた。二人の間に、中学時代の気まずさが、冷たい壁のように立ちはだかる。言葉が、凍りついた。

蓮は、無言で猫を抱き上げた。手袋を外した指先が、猫の濡れた毛皮に触れる。ひんやりとした感触。けれど、その奥からじんわりと伝わる、小さな命の熱。その温もりが、蓮の冷たい指先を、まるで溶かすように包み込んだ。陽菜は、そんな蓮の姿を、息を詰めて見つめていた。冷たい指先と、猫を労わるその仕草の、あまりのギャップに、胸の奥が微かに、疼くような感覚を覚えた。蓮もまた、陽菜の視線を感じていた。視線が肌を撫でるような、熱い感覚。頬に、じわりと熱が集まっていくのがわかった。黒猫は、まるで二人の間の凍った空気を溶かすように、蓮の腕に大人しく寄り添った。

「…どうしようか」

蓮の声は、自分でも驚くほど掠れていた。普段なら、こんな風に誰かに問いかけることなどない。陽菜は、その意外な言葉に、一瞬、目を見開いた。そして、小さな声で「うちで保護してあげてもいいけど…」と言いかけた、その言葉は、途切れ途切れになった。中学時代の、あの出来事が、彼女の言葉を、まるで重い鎖のように繋ぎ止めているかのようだった。蓮は、陽菜の言葉にならない戸惑いを感じ取った。彼女の目を見た。濡れた猫に揺れる、その瞳の奥に、中学時代には見られなかった、柔らかな光が灯っているのが見えた。それは、雨上がりの空のような、澄んだ、優しい光だった。

蓮は、陽菜の言葉の続きを、無言で促すように、そっと彼女の指先に視線を落とした。雨上がりの、まだ冷たい空気。陽菜の指先が、微かに、震えているのが見えた。蓮は、その震えに呼応するように、自分の指先を、そっと、陽菜の指先に、近づけた。触れるか、触れないか、という、あの、たまらなく切ない距離。互いの指先から伝わる、微かな、けれど確かな体温。その熱が、二人の間に、言葉にならない、けれど確かな熱を生み出していく。空気さえも、震えているかのような、張り詰めた静寂。その中で、黒猫が、小さく「にゃあ」と鳴いた。それは、まるで、二人の恋の始まりを、祝福するかのような、愛おしい、甘い鳴き声だった。蓮は、陽菜の頬が、ほんのり、赤らむのを見て、静かに微笑んだ。この、触れそうで触れない、この距離感が、たまらなく、愛おしかった。

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