屋根裏の怪談出張
出張で訪れた地方都市の古びた温泉旅館。高橋健一は、一人でこの宿にチェックインしていた。軋むような床板の音、薄暗い廊下、壁に掛けられた色褪せた掛け軸。どこか時代に取り残されたような空気が漂っている。
「ようこそおいでくださいました」
静かに現れた女将は、物静かで神秘的な雰囲気を纏っていた。その瞳には、この古い宿の歴史が映っているかのようだ。
「お部屋にご案内いたします。…あ、そうそう、この宿には代々伝わる怪談がありましてね」
女将は、まるで天気の話でもするかのように、淡々と語り始めた。高橋は、心臓が跳ね上がるのを感じた。怪談が大の苦手なのだ。些細な物音にも過敏に反応してしまう自分は、こんな場所で一人、夜を過ごすことになっていることに、内心落ち着かないものを感じていた。
「…屋根裏に、古いものがある、と…」
女将の言葉は、高橋の不安をさらに煽る。彼は愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
部屋は、広縁に時代を感じさせる建具。しかし、どこか奇妙な違和感があった。高橋は、部屋を見回しながら、特に天井の隅の埃が気になった。まるで、何かがそこだけを避けているかのように、綺麗に掃き清められているわけではないが、不自然に溜まっているわけでもない。妙な、規則性のようなものを感じた。
夜。静寂が部屋を包む。高橋は、寝ようと布団に入った。しかし、まぶたを閉じようとしたその時、微かに、しかし確実に、屋根裏から「ギシギシ」という不審な物音が聞こえてきた。それは、古い木材がきしむような、あるいは、何か重いものがゆっくりと引きずられるような、不気味な音だった。
高橋は、全身に鳥肌が立った。恐る恐る耳を澄ます。やはり、あの音は続いている。怪談が苦手な彼は、その音に過敏に反応し、恐怖で眠れなくなってしまった。
翌朝、高橋は顔色が悪かった。朝食を終え、女将に昨夜の音について尋ねると、彼女は静かに答えた。
「ああ、それは屋根裏に住む『何か』の仕業ですわ。古くからの怪談ですよ」
その言葉に、高橋はますます不安になった。毎晩続く物音に、仕事どころではなくなりそうだ。しかし、彼はサラリーマン。論理的思考を叩き込まれてきた人間でもある。この音は、本当に「何か」の仕業なのだろうか? 単なる物理現象ではないのか? 彼は、天井の隅の埃の溜まり方にも、ある規則性があることに気づいていた。それは、単なる偶然とは思えなかった。
恐怖を感じつつも、高橋は決心した。この謎を解き明かさねば、安眠は得られない。そして、この「怪談」の正体を、自分の力で突き止めてみせる。
その夜、高橋は恐怖を抑え、懐中電灯を手に、静かに屋根裏へ続く戸を開けた。軋む音を立てながら、古びた梯子を登っていく。そこは、想像以上に広々とした空間だった。埃っぽい空気が鼻を突く。
懐中電灯の光が、暗闇を切り裂く。高橋は、慎重に屋根裏を見回した。古い木材がむき出しになっており、その構造は老朽化が進んでいるようだった。そして、風が吹くたびに、屋根の梁や桁が微かに軋む音が響いている。おそらく、これが昨夜の「ギシギシ」という音の正体だろう。
さらに、彼は天井の埃の溜まり方にも注目した。いくつかの箇所に、風によって運ばれてきたであろう埃が、まるで模様を描くように溜まっている。高橋は、屋根裏の通気口の位置と、部屋の配置を思い出した。風が通気口から吹き込み、部屋の構造によって特定の箇所にだけ風が当たり、埃を吹き飛ばしたり、逆に集めたりしているのではないか。埃の溜まり方の規則性は、風向きと通気口の位置、そして部屋の配置による、まさに物理的な現象だったのだ。
高橋は、女将の元へ戻り、事の次第を説明した。物音の正体が、風による屋根の軋みと、部屋の配置による音の増幅、そして天井の埃は風と通気口の性質によるものであることを、論理的に説き明かした。
女将は、驚いた顔の後、ゆっくりと微笑んだ。
「なるほど、そういうことでしたか。長年、皆、怪談として怖がっていましたが、本当の原因に気づいた方は誰もいなかったようですわ」
その言葉には、どこか含みがあるように聞こえた。高橋は、恐怖が論理によって解消されたことに、深い安堵と、かすかな達成感を得ていた。
旅館を出る際、女将は高橋に言った。
「お陰で、この屋根裏の怪談は、新しい話になりましたよ。物理現象のお話としてね」
冗談めかしたその言葉に、高橋は苦笑した。出張先で得た「見えないもの」への論理的な対処法。それは、怪談が苦手な彼にとって、何よりも心強い武器となった。駅へと向かう足取りは、来た時よりも軽やかだった。